「坂の町 尾道を歩く」(4)-林芙美子が暮らした部屋-

小さな旅
12 /02 2016

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年に一度の学友との一泊旅行、女三人のかしましい旅の記録です。
今年は「坂の町 尾道」を歩きました。
(1)古い看板を守る尾道商店街から ➡こちら
(2)千光寺からの夜景 ➡こちら
(3)猫の道 -猫は、甘えたい相手に対してしっぽを立てて近づく-➡こちら


第4回は「林芙美子が暮らした部屋」

「尾道駅」から歩いてすぐ、尾道本通商店街入り口に「林芙美子像」があります。
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林 芙美子(はやし ふみこ、
1903年(明治36年)12月31日 - 1951年(昭和26年)6月28日)は、日本の小説家。物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」と言われるように波瀾万丈だった。



商店街を入るとすぐ、「芙美子記念館」がありました!
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↓「林芙美子の部屋」は、インフォメーションセンターの奥にあります。(見学は無料です)
 大正6年14歳から大正7年9月までくらしたのがこの家の2階のようです。
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↓急な階段です
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↓2階は狭い一部屋だけでした
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1918年(大正7年)(15歳)、文才を認めた教師の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。


↓当時の着物
 貧しくも少女らしい、愛らしい着物です。
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1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。



芙美子 享年47、近在の市民が大勢参列した告別式で、
葬儀委員長の川端康成は、
『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べたといいます。

この言葉だけで、どれほと凄まじい生涯であったのかを想像するのは難くありません。

(引用記事はウィキペディアから➡こちら


「芙美子記念館」を出て、お昼はやっぱり”尾道ラーメン”で♪
商店街のおじさまに美味しいお店を教えていただきました。
↓おじさまが指さした先がここ、目の前です(笑)
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↓細麺のあっさりした醤油味で美味しかった~(^^)/
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今日の最後の写真は、林芙美子が「放浪記」の中で
海が見えた
海が見える
五年ぶりに見る
尾道の海はなつかしい

と書いた尾道の海にしました。
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「千光寺展望台より尾道水道を臨む」

つづく


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